世界遺産 熊野古道(紀伊山地の参詣道)

Sacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range (2004)
  熊野三山への参詣道
(現在『熊野古道』と呼ばれる道(熊野三山へ通じる参詣道の総称)を含む)
「熊野参詣道」として2000年に国の史跡に指定される。
「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。
 
  世界遺産に登録された紀伊山地の参詣道


   大峯奥駈道 約80km
   熊野参詣道 中辺路 田辺-熊野三山
   熊野参詣道 大辺路 田辺-串本-熊野三山、約120km
   熊野参詣道 小辺路 高野山と熊野三山を最短で結ぶ 約70km
   熊野参詣道 伊勢路 伊勢神宮-熊野三山 約160km

解説

 907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われています。熊野参詣が都の貴族のあいだに広まったのは寛治4年(1090年)白川上皇の参詣(9回)から、その後、 鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。平安時代中頃から鎌倉時代にかけて皇族貴族のあいだで人気をよび、のべ 百数十回も行幸がおこなわれました。「熊野御幸」といわれ中辺路(なかへち)が公式参詣道(御幸道)となりました。大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに熊野神の御子神を祭祀した『九十九王子』 (沢山という意味での「九十九」)があり、各王子ごとに参拝をしながら険しい山道に分け入り修行重ね、やっとのことで熊野三山の辿り着くというものでした。この「紀伊路」は、京都から淀川を下り、大坂窪津から海沿いに陸路を南下し、和歌山紀三井寺を経て田辺より紀伊山地に分け入り本宮(熊野三山)に向かいました。このうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が、後に「中辺路」と呼ばれるようになりました。この中辺路ルートは、「蟻の熊野詣」と例えられたほどに参詣者が列をなし庶民にまで人気をよんだということです。現在でも王子跡が数多く残り、紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もあります。

 

 

 

参詣道

 

大峯奥駈道

中辺路

大辺路

小辺路

伊勢路

文化庁・中辺路町の案内板より

熊野道

 熊野路は、浄土への道であった。熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に、山を越え、海ぞいをよぎって行った。それは貴族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた『蟻の熊野詣』であった。
 この熊野詣の名を高めたものは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで実に374年間にわたり100回以上の御幸であったといわれている。
早朝京都を出発まず淀川を船で大阪府下に下る。それから陸路南に向かい田辺、中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。
 往復の日数は20日から1か月、一行の人数は最大で814人最小の時で49人、平均300人前後にのぼったといわれている。上皇、法王は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道端の各所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所がもうけられそのうち?が中辺路町内には滝尻王子より道?川王子まで13王子を数えるのである。
昭和57年3月

photo menu photo menu

世界遺産登録施設の詳しい解説と写真

photo menu photo menu

−−− ・ (C)  世界遺産info ・ All Rights Reserved ・ −−−

世界遺産 info

リンクフリー
バナー →