日本書紀(神武天皇紀)に、戊牛年(ぼごのとし・紀元前3年)6月に狭野(佐野)を越えて「熊野神邑(くまのみわのむら)に到り、旦天磐盾(すなわちあめのいわたて)に登りて」と記されている。熊野神邑は新宮の古称、天磐盾は神倉山(かんのくらやま)「ごとびき岩」であると伝えられている。神武天皇が東征の際に、天照大神の子孫の高倉下命が神武天皇に神剣を奉げ、天照大神の遣わした三本足の八咫烏(やたがらす)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すともいわれている。熊野三山の神(早玉、結、家津美御子)が降臨した霊所でもあり、熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも呼ばれた。熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの地である。ごとびき岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土している。 主祭神の高倉下命(タカクラジノミコト)は、天火明神の子、天照大神の曾孫、別称に天香久山神(アメノカグヤマノカミ)、天香児山神(アメノカゴヤマノカミ)、天香山神(アメノカヤマノカミ)。後の熊野三党(「宇井」「鈴木」「榎本」の同地方で勢力を誇っていた一族三党)の祖として知られ、三山祀官の祖となったといわれる神である。 建造物は、1870年(明治3)の台風で倒壊した。1918(大正7)年、ごとびき岩の下に祠を再建、昭和にはいって神橋、大鳥居(山麓)、社殿、玉垣、鳥居(山上)、鈴門、社務所などが再建された。山上への道は急勾配の自然石の積み上げによる鎌倉積みと呼ばれる石段が538段、源平合戦の熊野水軍の功労に対し1193年に源頼朝公が寄進したと伝えられる。その先の神倉山山上には「ごとびき岩」と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。ゴトビキとはガマガエルをあらわす方言。もともとは、ガマガエルに似た巨岩の崇拝から発した原始的な自然信仰だと考えられ、やがて修験道の聖地となり熊野信仰へと繋がっていく。
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