法隆寺五重塔 ほうりゅうじごじゅうのとう (国宝)
飛鳥時代
三間五重塔婆、初重もこし付、本瓦葺、もこし板葺
重要文化財指定 1897.12.28(明治30.12.28)
国宝指定 1951.06.09(昭和26.06.09)
法隆寺の五重塔は安定した美しい外観をもつ最古の木造塔で、金堂にひきつづいて七世紀末に建立されたものと思われる。二重基壇上に建ち、初重柱間寸法は一辺二一・一八尺(約六・四二メートル)、五重はちょうどその半分とする。柱間寸法は金堂と同じく高麗尺七寸五分(約二七センチ)を単位として規格的に定められている。組物は金堂同様の雲斗雲肘木であるが、渦文はない。深く出る軒も金堂同様の一軒角垂木で、その上にすぐ瓦を葺き、屋根勾配はゆるい。五重目は現在野屋根を用いて勾配を強めているが、もとは下方同様であった。
初重の側回りは中央間扉口、脇の間連子窓とするが、窓の裏は土壁をぬり、これにもと金堂と同じ壁画を画いていた。心柱は地中に心礎を据えて掘立柱とし、心礎の舎利孔には容器におさめた舎利を安置するが、現在では心柱の地中部分は空洞化し砂を充填している。四天柱をつつみこんで塑像の須弥山を構え、天井板には蓮花文を画く。
二重以上は柱盤の上に短い丸柱を立て、順次積上げる。上方の柱間の落ちが大きいので三重側肘木を短くし、四重では脇の間の肘木をつないで中央に雲斗一個をのせ、五重は柱間を二間とする。裳階は金堂と類似し、建立時期は塔本体とあまり差はないらしい。
金堂などとともに飛鳥様式を色濃く伝えるものと考えられ、洗練された意匠になる名塔である。
塔頂の相輪(そうりん)部分土台には、三つ葉葵の家紋が入っている。(TV映像)
江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍徳川
綱吉の生母である玉(お玉の方・落飾し桂昌院)の寄進によって伽藍の大規模な解体修理が行われた。その際、ぬかりなく塔頂に徳川家の家紋を入れたらしい。
「頭が高い、 この葵の紋どころが目に入らぬか!」。 当時は世界遺産では無かったからね。
徳川 綱吉(とくがわ つなよし、1646-1709)
正保3年1月8日(1646年2月23日)−宝永6年1月10日(1709年2月19日)
桂昌院(けいしょういん)
寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日)
父は北小路太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。(西陣織屋や畳屋の娘、高麗人の使用人に産ませた娘など実際の出身には諸説あり。
幕府祈願所護国寺建立や京都の善峯寺の再興に尽力している。元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜ったというからかなりの権力者だったのでしょう。宝永2年(1705)歿、79才。
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