法起寺

世界遺産・法隆寺地域の仏教建造物

聖徳宗

 

奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本1873番地

0745−75−5559

 

 法隆寺だけを見て帰る人が多いけど、こちらも世界遺産。法隆寺、法輪寺の搭とあわせて斑鳩三搭と呼ばれています。

 

 

法起寺の沿革 (法起寺のパンフレットより)

 法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれてい る。
 この寺は、推古十四年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたもの と伝え、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられている。
 創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘(ろばんめい) によって判明する。それによると、推古三十年(622)二月二十二日、聖徳太子はその薨去(こう きょ)に臨み、長子の山背大兄王(やましろおおえおう)に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺 命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したという。
 その後、舒明十年(683)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武十 四年一(685)には恵施僧正が宝塔の構立を発願し、慶雲三年(706)三月に塔の露盤を作った としている。
 この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなった。同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に 接続する様式の伽藍であったと推測されている。
 当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見え、奈良時代には相当栄えていたらしいが 、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に衰微したが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されている。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔を残すのみであったと いう。
 その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子たちは、 延宝六年(1678)に三重塔を修復した。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄七年(1694)に講堂を再建、文久三年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられている。
 明治維新後は、本寺法隆寺と共に真言宗の所轄となったが、明治十五年(1882)法隆寺が興福 寺と共に法相宗に独立したのにともない、法相宗の小本山となった。
 しかし、昭和二十五年(1950)法隆寺が聖徳宗を開宗したため、当寺も聖徳宗の本山の一つに なっている。
 昭和四十七年(1972)には三重塔の解体修理に着手し、五十年に完成したのに続いて、五十三 年には講堂の修理を行い、五十七年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設している。
 

宝物

木造十一面観音菩薩立像--重要文化財--
像高1250・0p。
この像は講堂(観音堂・本堂ともいう)の本尊であったが、現在は収蔵庫に安置している。造像形式は通常の十一面観音菩薩像で、幹部は杉の一材から彫出しており、十世紀後半ごろの作といわれている。

銅造菩薩立像--重要文化財--
像高20・0p。
 寺伝では虚空蔵菩薩と呼ばれており、全身に火をかぶった形跡がみられる。その形式上、七世紀後半の作といわれている。

 法起寺 境内の写真と解説